新春対談 劇団民藝 日色ともゑさん

過去の事実、そして未来を
きちんと見つめていかなければ!

2015年11月21日(土)、福島テルサのホワイエで、福島演劇鑑賞会の例会『真夜中の太陽』にハツエ役で出演された劇団民藝の日色ともゑさんと、「福島の芸術ホールを創る会」の羽田正雄代表との新春対談が行われました。制作の上本浩司さんにも同席頂きました。

日色ともゑ(ひいろともえ)さんのプロフィール

✿1941年:東京生まれ
✿1961年:劇団民藝俳優教室入所。劇団民藝入団、宇野重吉に師事し、演技を学ぶ。初舞台はこの年の「火山灰地」の娘役。
✿1967年:NHK朝の連続テレビ小説「旅路」ヒロイン。
✿毎年舞台に立ち、2015年の舞台は、「冬の時代」「クリームの夜」「真夜中の太陽」
2008年からは、毎年夏に朗読劇「夏の雲は忘れない」の公演を続けている。

「真夜中の太陽」のハツエを演じて

過去の事実は変えることが出来ない

羽田)私は昨日舞台を拝見しましたが、とっても素晴らしい、いい舞台でした。

日色)それは良かった、有難うございます。

羽田)元々日色さんは可愛らしい方ですから、おばあちゃん役のために白髪の鬘を被っているのかなと思う位、女学生の中にいてもまったく違和感がありませんね。その優しげなおばあちゃんが「防空壕に入っちゃダメ!」と叫びます。70年前の女学校でのシーンですね。

日色)結局は私の役であるハツエの夢であるか、妄想であるかは分かりませんが、「あの時、なぜ自分だけが防空壕に入らなかったのか」ということがあるんですね。私も経験していますが、あの当時は、空襲警報がなったらす

ぐに家族全員で防空壕に入ったんですね。それなのに、ハツエだけが防空壕に入らなかったのは何故だろう、何故だったんだろうって。ですから最初の場面は、皆が去っていくのをボウーっと見ていて、何が起こったのか分からずに呆然としているというシーンです。

羽田)すでに亡くなられた先生も一緒に生徒を止めるというシーンもありますね。

日色)止めれば良かった、止めたかったという彼女の強い願望があの場面には出てくるんですね。「あの時自分は助けることができた、防空壕に入らなければ助かったんだ、でも結局止められなかった、自分の力ではどうすることもできなかった」ということの後悔が、戦後70年間彼女の中では大きな傷となって残っているんですね。

ですからハツエの夢であり、希望であり、止めれば良かった、そうだったら良かった、という彼女の願望と葛藤が、いくつか違う形で、何度も繰り返し出てくるんですね。

そして最後の場面で、ハツエは楽譜を取りに戻ったという事実が分かるんですね。

人間の運命の分かれ目ってあるじゃないですか。一週間位前に起きたフランスのテロでも、自分が支払いに行っていたほんの何秒かの間に、テーブルに残っていた友人たちが犠牲になったとか、ちょっと煙草を買いに行って恋人と離れた瞬間に、恋人が死んでしまったとか。ハツエ自身もそうだったんじゃないでしょうか。何も意図しないで、いつもの防空壕だったのに、空襲警報で皆が行っちゃった後に、自分だけが取り残されて音楽室にいたというのが事実だと思います。だから正しいも正しくないも無いんですが、ハツエのように自分だけが生きていていいんだろうか、とずっと思い悩む人もいると思います。東日本大震災の後もそういう傷を負った人は沢山いたんじゃないでしょうか。

そして最後にどうしても事実は変えられない、という結論になるわけですね。「でもそれをきっちりと見ていかないと、輝ける未来はないんだよ、同級生たちの未来もなくなってしまったわけだから、ちゃんと過去を検証しなければならないんだよ」というのが、この芝居の中で私が一番思うことですね。

 

劇団民藝公演「真夜中の太陽」

原案・音楽:谷山浩子
作:工藤千夏  演出:武田弘一郎
出演:日色ともゑ、石巻美香、神敏将、平松敬綱、藤巻るも他

≪あらすじ≫

太平洋戦争末期(1944年)、ミッション系の女学生たちが音楽室で空襲に遭います。女学生たちは防空壕に避難しようとするのですが、「防空壕に入っちゃダメ!」と叫ぶ女学生がいました。その女学生は、よく見るとおばあちゃんでした。
彼女(ハツエ)は、「真夜中の太陽」の楽譜を音楽室へ取りに戻ったため一人生き残った女学生で、防空壕の中で亡くなった友だちを助けようと、70年の時を経て、再びあの日に還ってきたのでした…。

 

 

 過去に目を向け、今何をすべきか

日色)じゃあ、生き残った人は何をすべきか。

たまたま昨日、NHKのドキュメンタリーを見ました。5年前の交通事故で友だち3人を亡くし、自分だけが生き残ったものの、大火傷をし、片足も無くした青年が、今、車いすラグビーをやっているという内容でした。自分だけが生き残って、死にたい、死にたいと思っていた彼がリハビリをしている時に、あるお年寄りに言われた「あんた偉いね、一生懸命生きようとしてリハビリしているね」の一言で、自分が死のうと考えていたことは間違いだったと気付き、死んでしまった友だちに対して、自分は何が出来るか、と問いかけて、車いすのラグビーに出会ったと言うんですね。来年のリオのオリンピックに出る権利を得たそうです。それを見ていて、ハツエの気持と重ね合わせて、何かドキンとしました。

その青年が「自分がメダルを目指していくことが、友だちの死に対する償いになるんじゃないか」というような言葉を発していましたが、そういうことなんじゃないでしょうかね。だからハツエは、皆に「自分が生きられなかった70年分を生きてくれて有難う」って言われた時に、「ああ、皆から許された。だからもう85歳だけれども、これからがハツエの人生」となるんですね。

羽田)「安保法案」とかが通った今、本当に時機を得たお芝居ですね。やっぱり過去にあったことに目をつぶったり、無かったりしたことにはできないですよね。

日色)そうです。無かったなんて言えないんですよ。こういうことがあったから、こういうことになってしまったということを、きちっと見ていかないと。広島、長崎についても、子どもたちの命、未来を奪ってしまったことに、そして何もしなければ再びこのことは起こるんだということに、ちゃんと目を向けていかなければならないんです。今現に起こっているわけですから。

羽田)原発事故でもまだまだ苦しんでいる人がたくさんいます。

日色)そうです、いっぱいます。チェルノブイリの原発事故後も子どもたちが甲状腺の癌を発病していますよね。そういうことも全部きちっと見ていかないと。見過ごしてしまってはいけないなあと思います。

 

理想の劇場について

舞台と客席の関係が最優先

羽田)私たちの会は1988年にスタートして、2016年で28年になりますが、福島には、演劇に適した中ホールがなかなかできません。

日色)そうですね(笑)。

羽田)福島市公会堂は1959年に開館して56年も経ち、老朽化が進んでいます。設備も古いので、ずっと建て替えを要望しています。テルサは1995年オープンです。

日色)何かその頃に、市長さんにお会いしたことがありますよ。

羽田)そうですね。日色さんも一緒に行っていただきましたね。当時の吉田修一市長が、「ホールを創る会」の意見も聞いてくれてつくったのが、この演劇などの舞台芸術に適した473席のFTホールです。敷地の関係で楽屋が地下になったのが残念ですが、使われてみていかがですか。

日色)確かに楽屋は舞台と同じ階に欲しいのですが、それよりも優先したいのは、舞台と客席との関係や、舞台の両袖や後ろが広くてゆったりしていることですね。今回のお芝居は一回舞台に出たら楽屋には戻らないので、楽と言っちゃなんですが、やり易かったですよ。別な芝居で、着替えとかで長い階段を何度も上り下りして、舞台と楽屋を行き来した時は、若い時には感じなかった疲労感があったのも事実です。ただこういうビルの中のホールは、真後ろに楽屋が取れないのは仕方がない気もしますね。

羽田)全国のホールを回られて、こういうホールがいいということはありますか。

日色)それははっきりとあります。私の師である宇野重吉(うのじゅうきち 1914-1988俳優、演出家)は、「理想の劇場は、500から800まで、そして舞台と同じ大きさの両袖と後ろがあること」とずっと言い続け、自らもいろいろ探していました。神戸文化ホールがいいよと、ずっと監修をしていました。700席か800席です。それと京都府立文化芸術会館。ここは敷地の関係で419席で、楽屋は地下です。それでも舞台面積と客席面積がほぼ同じで、舞台と客席が一体感を持つホールです。京都労演、京都仲間の会、うちの劇団とかが運動をした成果です。確かに400しか入らないと公演を何日もやらなければならないなど、色々なことがありますよね、でもそこは劇団や使う人たちの相談で何とかしたいですね。1ステージ幾らだからとかそんなことを言わずに全体で、とかね。

多目的ホールというのは、音楽もやれれば、バレエもやれる、オーケストラもやれれば、演劇もやれる、と言ってつくったホールで全国に沢山ありますが、やっぱり使い勝手は悪いですよ。

 

客席と役者の呼吸が行き交う場!

日色)1500人や2000人も入るホールは、演劇をやるには大きすぎるし、音が響きすぎてセリフが聞き取りにくかったりします。ところが、隣町よりすごく立派なものが出来た、椅子の数は自分たちのホールの方が多いって、喜んでいらっしゃる方も実際いるんですね。だからダメとは言えないし、難しい問題ですが、そう思っている方の意識を変えていかないといけませんね。

芝居を観るには、やっぱり客席の隅々から、舞台で誰が何をやっているか良く見える環境が必要です。中には、芝居は双眼鏡で観るものと思っている方がいるんですよ。2列目位から双眼鏡で観ている方がいると、ちょっと異様な感じがしますね。

羽田)見える、見える、って一体何を見に来たのかなと思っちゃいますね。

日色)でもそういう人も含めて演劇界を盛り立ててもらいたいので却下はしません。宇野先生は「客席の呼吸と役者の呼吸が行き交う、あの役者が今フウーっとため息をついた、それまでが届くような劇場でありたい」と言っていました。私たちはそれを理想としていますから。

羽田)昨日のお芝居も俳優さんの息づかいが伝わって来ましたよ。

日色)テルサは私たちも楽です。でも逆に怖いですね。隅々が見えてしまうから、嘘の芝居とか、いい加減な芝居とかはできません。皆若いので、経験が無いから上手とは言いませんが、新鮮な気持ちで真実をバーッとぶつけていくことが大事です。そういうことが丸裸で見えてしまう劇場ですから、怖いんです。

羽田)観る側にはとてもよく伝わりましたよ。

 

演劇界を盛り立てるにはやり続けるしかない

日色)民藝は紀伊國屋サザンシアター(1996年オープン468席)を拠点としていますが、12月だけは三越劇場を使う長い歴史があります。サザンシアターができる前は、古い方の紀伊國屋ホール(1964年オープン418席)をよく使っていました。砂防会館のホールを使っていたこともあります。そこは700席ちょっとで楽屋は2つ位しか無かったのですが、芝居の上演には理想的でした。上には自民党の本拠地があって、そんなビルのホールで新劇をやっているという快感も少しはありましたが、使えなくなってしまいました。

演劇鑑賞会の9月例会が人形劇団プークの「怪談牡丹燈籠」でしたね。ホールを創る会機関紙106号に載っていた、劇団プーク演出家・井上幸子さんのインタビューを読みました。プークも紀伊國屋ホールを使っているんですね。プークの稽古場が出来たての頃に、私は今の代表のお父様であり、もう亡くなられた川尻泰司(かわじりたいじ 1914―1994、人形演出家、脚本家、元人形劇団プーク代表)さんと対談しましたが、新宿の一番いい場所に建てるなんてすごいなあって思いました。

私は以前から、「怪談牡丹燈籠」の音楽を担当したマリオネット(ポルトガルギター奏者の湯浅隆とクラッシックマンドリン奏者の吉田剛士によって1990年に結成されたアコースティックユニット)と組んで、「語りと音楽の夕べ」という朗読会と音楽会をしていることもあって、プークの活躍は気になっていました。紀伊國屋ホールでの公演は、プークにとって経費が高いのでやめようという意見もあったと井上さんはおっしゃっていますが、やはりやり続けるしかないということですよね。私たちもやり続けるしかないと思っています。

 

福島市にぜひ芸術ホールを!

日色)このテルサもいいホールですが、皆さんは800席の中ホールを求めて運動をされているんでしたよね。

羽田)私たちが要望している「観やすく、演じやすく、使いやすい演劇などの舞台芸術に適した中小ホール」の中ホールが800席なのは、プロの劇団の公演でも採算がちゃんととれることを考えてのことです。473席のテルサでは採算をとるのが難しいんですよ。しかしテルサは稼働率が高く、市民が日常的に交流できる場となっています。テルサに加えて公会堂が建て替えられて800席の中ホールと200~250席の小ホールを備えた芸術ホールができれば、福島の文化はますます発展するからと繰り返し要望しているところです。日色さんにも市長にあって頂くことを考えていたのですが、今回は実現できなくて残念でした。今後ぜひ機会があればお願いします。

 

旅公演の思い出あれこれ

初旅公演は東北コース

羽田)9月の演劇鑑賞会のお話会で、函館で日色さんも出演された「あゝ野麦峠」を観て芝居をやる気になったと発言した女性は私の女房です。

日色)それは、それは。

羽田)日色さんが最初に旅公演に出たのが「イルクーツク物語」だったと、伺ったのですが。

日色)そうです。東北地方でした。

羽田)実は私たちは東京でアマチュア劇団に所属していた時期がありまして、その劇団も「イルクーツク物語」を上演しました。その時に女房は主役のワーリャでした。お話会で「イルクーツク物語」のお話を聞いた時はとても懐かしく思いました。

日色)私のやった役は、パンを買いに来る少女という役で、初演から何年間かその役はありましたが、途中で作家のアルブーゾフさんがその少女はいらないということで、その役はなくなってしまったので、とても貴重な役です。ですから宇野先生が亡くなられて、若杉光夫先生(1922-2008演出家、映画監督、脚本家、妻は故南風洋子さん)が追悼公演で演出をされた時には、その少女は出てこなかったんです。

羽田)私が何の役だったのかよく覚えていないんですが、確か酔っ払いの役でした。

日色)分かった、それなら梅野泰靖(うめのやすきよ1933-)さんがやった役ですよ。初旅でしたので思い出深いです。当時は列車の都合とかもありましたから、皆であっちこっち遊びに行ったりしてゆったりとした旅でしたね。

羽田)これからも県内をまわられるんですか。

日色)そうですね。いわきから福島に来ましたので、この後は会津若松、郡山、須賀川です。喜多方が解散してしまったのは残念ですが、福島県下で5か所やれるんですよ。鑑賞会を1つの県で5か所持っているのは本当に頑張っていらっしゃると思いますよ。特に大震災という大変なことがあった後なのに、皆諦めなかったですね。演劇を観るということがどれだけ心の栄養になっていくか、慰めになっていくかですね。やっぱりいわきなどで公演をすると、切実な感じがしましたね。ですから交流会では、舞台のハツエさんと共通する所が沢山ありましたと、体験を語ってくださる方が何人もいらっしゃいました。

「真夜中の太陽」は、東北が終わった後も、2016年3月まで、京阪、大垣、福井、四国、神奈川、関越、新宿と巡演を続けていきます。

 

私は旅公演の見守り役です!

羽田)健康の維持が大変ですよね。

日色)私は慣れていますので、自分のペースがつかめますが、初舞台、初旅の子もいます。その子たちが何とか東北コースを無事に終えられるように、「あれ、あの子は元気がなさそうだな、あの子はリズムが違うな」とか、私は見張っているんですよ。幸いなことに私の役は最初セリフが無いので、役としても見守っているというのがあるんですがね。

羽田)研究生の方もいらっしゃるんですか。

日色)います。劇団歴2年の子が20歳で初舞台です。後は3年とか4年、せいぜい5年位でしょうか。その次は15年、20年。そして私になると50年です。なんて言ったって戦争を知っているのは私だけですから。

羽田)昨日、隣席のご婦人が「日色さん若いね、まだ70歳になっていないんでしょう」とおっしゃるので、私も知ったかぶりをして、74歳になられるそうですよと言ったら、「嘘でしょう、私より年上!」とビックリしていましたよ。

日色)来年後期高齢者でございますよ(笑)。

羽田)私の小学6年の孫も会員です。今回の芝居でも焼夷弾とかの単語は分からなくても、戦争のことを知ってほしいと思っています。

日色)どうぞ言葉は教えてくださいね。勤労動員とかね。

羽田)今日は有難うございました。旅公演、お体に気を付けて頑張ってください。

(担当 柳谷紀子、笠原慶大)

 

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