詩人 和合亮一さん講演会 「福島から橋をかけるために」

日時:5月19日(土)14:40~16:30
会場:福島市市民活動サポートセンター

和合亮一 さん

詩人。中原中也賞、晩翠賞などを受賞。2011年、東日本大震災直後の福島からTwitterで連作詩『詩の礫』を発表し、同年5月、オランダのコンセルトヘボウに招致、朗読にて発信した。
劇団遊戯空間「つぶやきと叫び」(新宿文化センター)や合唱劇「さねかずら」(新国立劇場上演予定)、オペラ「起承転転」(洗足学園音楽大学)などの台本執筆、「つぶてソング」「夜明けから日暮れまで」などの合唱曲の作詞、「未来の祀り」の企画・台本・出演など、活動は多岐に渡る。
昨夏にフランスより第一回ニュンク・レビュー・ポエトリー賞を受賞。フランスでの詩集賞の受賞は日本文壇史上初となり、国内外で話題を集めた。

○和合亮一氏 公式HP https://wago2828.com/

 

「ひと」「まち」「ことば」の青年時代

言葉には「橋」があり、言葉を口にすることで人づくりや街づくりが始まるんだなあ、と思っています。震災があったあの時、どうしていいかわからず、思いのたけをパソコンにつぶやき続けました。それが、いろいろな人との出会い、その後の様々な展開へとつながる橋だったのかな、と思うのです。

「ひと」「まち」「ことば」。そういうことを考え、出会いを求めていた青年時代でした。

詩を書き始めたのは大学時代。福島大学に入り、萩原朔太郎の詩集に出会います。彼の詩に出会った時、心を貫かれました。『月に吠える』『青猫』…。独特の世界の詩で、夜も眠れないぐらい興奮しました。それが、詩人や詩との初めての出会いだったと思います。

その後、成人式のあとに同級生と話をして、「自分には何があるのだろう」と考え、「言葉が大事だな」と、やったことのなった詩を書きはじめました。それからアルバイトをして当時出たばかりだった「書院」という文字の美しいワープロを買い、自分の詩をプリントしました。

印刷した詩を何人かの友達に渡したのですが物足りなく、大学で印刷して、朝、金谷川駅の階段で、みんなに配りました。

配り終えて満足して大学への坂道を登っていくと、その自信作がいっぱい捨てられ、破られ、靴跡がついていて…。大量の自作が死屍累々と私の行く手を照らすかのように続いている。それを見たときに「これが現実なんだなあ…」と、一枚ずつ拾いながら授業に向かいました。「いつかは捨てられない詩を書こう」と思ったのが、本当の意味で自分の出発だったのかなと思っています。

福島大学には大切な恩師が何人もいます。詩を書き始めた頃から「やめろ」というのでなくて、応援して下さる先生がたくさんいらっしゃった。その中でよく「君は地に足がついてないねぇ」と言われました。「地に足をつける」とはどういうことか。今一番大事なことだと思っていることでもあります。

学生時代は「東京へ」という思いもありました。本当に自分のやりたいことが福島で得られるのだろうかと悩み、元気をなくしていました。その時、詩の書き方や理論を教えてくださった先生が「東京へ行けないことで落ち込むのは本当の詩人ではない。本当の詩人には環境を変える力があるんだ。詩人になりたいのなら自分の環境を変えなさい。その代表選手が、宮沢賢治です」と、説して下さいました。宮沢賢治は、花巻をイーハトーブと名づけ、ただの川をイギリス海岸と言いました。これこそが、詩人ですよね。

 

振り向いてくれないからこそ

演劇にもいえることですが、身近に詩人や演劇人はいないことが「普通」なのが、福島や日本なのかもしれません。しかし、海外に行くと、詩人や演劇人が社会の中で大きな役割を果たしています。

ヨーロッパのスロベニアでは一番尊敬されるのは詩人です。国歌も最初に「詩を語れ」と出てきます。国民は詩人と共にある。詩集が出ると、テレビ局で必ず特集し、本屋では詩集が平積みで売られます。

海外に比べると日本、福島での詩の市民権はあまり高くありません。でも私は、むしろ、振り向いてくれないからこそ燃えてくるものがある。詩を駅で配り捨てられたときも、次の日も、次の次の日もやったんです。

30歳の時に初めての詩集を出しました。現在も書いている現代詩と呼ばれるものです。

もともと高校の時に、福島で唐十郎の演劇を見て衝撃を受けたのが私の活動の始まりでした。彼らのお芝居は、終わると必ず背景をバタンと倒す。すると舞台の背景に福島の町の風景が見えてくる。自分が生まれ育ったいつもの風景が、斬新で都会的な、異空間に見えました。

後々、芸術の「異化」とはこれかと気づきました。自分が福島で暮らすと改めて決意したときに、「自分の福島を異化しよう」と道筋を示してれたのが、唐組の暴力的なアングラ芝居でした。

この唐十郎の台詞のような詩を書いた処女作。出版当初、親戚などから「イヤーッ、わけ、わかんないな~」と言われていました。

落ち込んでいましたが、2月に中原中也賞受賞の話が来ました。翌日、受賞が大きく新聞に掲載され、親戚から次々と、「亮ちゃんの詩は、改めて読むと、良イナイ!」と。

実は、第一詩集を出して、詩を書くことはやめようと思っていました。でも、賞をいただいて「応援してるよ」という声を聞き、続ける気持ちになりました。

「あなたの書く言葉はわからない」と言われ続けてきて、でも、そこで自分を変えてしまったら、オリジナリティ、つまり魂は消えてしまう。表現したいことは曲げてはいけない。変わるべきは周りだ。そんな気持ちで、大きく構えていました。

❏詩とは行動すること

「和合さんとって、詩は何ですか?」とよく聞かれます。僕は「詩は行動することだ」と答えます。働きかけて、挑戦して、失敗して、悔しい思いをすることに詩を書く意義を感じています。だから、いまも悔しい思いを大事にしたいと思っています。

長田弘さんは「詩を胸に置く生き方をする、それが詩人だ」と言いました。私自身も、自分が受けた傷や、感謝、喜びを胸に置いて生きて来たのかもしれない。長田さんは唐十郎と同じ時代に青春を過ごした方で、60年代に詩を書いた方でした。

「60年代の初めと終わりに学生運動があったが、違いがわかるか?」と長田さんに質問されました。前半がゲタで、後半はスニーカーという違いがあったそうです。ゲタの学生運動は世の中を変えようと裸足で戦った。スニーカーの学生運動はファッションだった。そこにいる人間は一緒だけれど、履いている靴は違う。つまり器が違う。人間は、すべて器によって決定されている。「あなたが今洗面器だったら、タライをめざしなさい」と長田さんに言われ、「地に足をつけろ」と、よく言われたなと思い返しました。「器が大きくなれば、いろんなものがたくさん入る」ということを長田さんから教わりました。

 

❏同調圧力へ負けずに発信する

僕は全国いろんな所へ行っています。珍しい場所はありますけれど、どこに行っても風景はほとんど変わりがない。コンビニからコンビニに旅をしているようだと思います。

あとは話し言葉。電車で通勤していますが、学生が「マジか~」「それ、ないワ~」「しばくぞ」「ふざけんな~」と言い合っている。同じ言葉でやり取りしなければ、そのグループの中に入っていけない。本当に思ったことを話しているのか、聞きたくなります。

同じ風景の中、同じ話し方で暮らしていたら、同じ器しか手にできないのではないかと思うんです。それが「同調圧力」。日本では「同調圧力」が強くて、同じ時間の過ごし方を求められていると考えるようになりました。

きっかけは原子力発電所の爆発です。マスコミ、あるいは東京の力によって、同じ考え方を押しつけられてしまう。震災後、大変な思いをして、生活を語っている方々がいらっしゃいました。それは原発で働いている方も同じです。ただ、そういう方々が自分の考え方を話そうとすると、どうしても「同調圧力」の力がかかってくる。

そういうことを考える中で、違う日本の風景を伝える、違う時間の過ごし方を伝えるということが、地方からの重要な発信になると思うようになりました。

私は福島市山口の出身です。私の家では、電気を消しても月の光で本が読めました。家の前には本家があって、井戸が見えます。満月の夜は、その井戸の屋根が真っ赤に光り、この上なく美しいのです。萩原朔太郎の詩を読んだときに、ああ、この主題は本家の井戸の屋根だと思いました。こういう風景で育ったから朔太郎の詩がわかったのかもしれません。四季の移り変わりがハッキリとした故郷で少年時代を過ごしたことが、私の感受性を育ててくれたと思っています。

原子力発電所が爆発したという惨憺たる結果となりましたが、同調圧力に対して私たちが発信するきっかけを福島の風景が与えてくれているんだと思います。

 

❏福島だけの風景へのヒント

インドネシアの国立大学で、講演、朗読をしてくれと言われました。夜10時ぐらいに600~700人の若者たちが集まり、その中で詩を読みました。詩の内容は、飯館村の山津見神社のご神体の狼をテーマにしたもの。日本語で朗読をしました。

朗読が終わり地鳴りのような拍手をいただきました。昨年の夏、福島稲荷神社で行った「未来の祀り」でも同じ詩を朗読したのですが、インドネシアでは朗読の最中に歓声がおこるなどの反応を受け、より気持ちが高まりました。

インドネシアは8割以上がイスラム教徒で、あとはキリスト教と仏教の3つの宗教を持つ人々が一緒に暮らしています。「考え方が違う」となったら暮らしていけない。インドネシアのみならず海外ではそうなのです。日本語の朗読にも拍手をする、新しいものや異なるものを受け入れる文化がある。

また、ヨーロッパでも小さいころから朗読を大事にする文化があります。耳が非常に研ぎ澄まされた方が多くいます。

そもそも街に肯定による分かち合いの文化というものがあります。日本には否定による同調の無理強いのようなものがあると、詩を通して感じています。詩を語り、読む人がいたら、耳を傾けるのが海外。詩を語りだしたら気持ち悪い、近づかないというのが、日本。

何で日本に生まれたんだろうと思いつつ、日本を、福島を愛し続けています。これは日本にいるから感じたことです。

震災後、Twitterに詩を書いたとき、最初に連絡をもらったのはオランダ外務省からでした。皇太子が、ぜひ、福島の話をしてほしいと言っていると。

そのときには、私が勤めている学校が再開していたため「行けない」と返事をしました。日本の外務省は渡辺謙さんを派遣することにしましたが、オランダからの回答は「本人が朗読しないと意味がない」と。まだ相当緊迫していた頃でしたが、校長先生に勧めていただき、オランダに行き朗読しました。詩人が自分の詩を朗読するのは当たり前、そしてそれをみんなが聞くのも当たり前、そういうこと感じました。

これからは、福島がインドネシアやヨーロッパのような町になっていくことが一番重要なのではないかと思っています。

私はその町の文化を創るのは、発信する側ではなく、受け取る側だと思っています。つまり、「聞く耳」「見る目」「つながる手」を持ったお客さんが福島に私達の手で拡げていけば、私のような何かを創る人が全国からやってくると思うんです。

パフォーマンスをやる人とは「あそこの町はいい町だった」、「あそこに行ってみたい」、「あそこは寂しい町だった」と、そういう話になります。

 

❏魚の群れの動きが変わる

魚の群れが泳いでいる姿を想像してください。最初を泳いでいる魚がいて、私は一番後ろを泳いでいる魚だったのかもしれません。詩を書いてきて、いったい何の役に立つんだと言われ続けてきた。

ところが、震災が起きて魚の群れが、反対方向を向きました。福島で暮らして詩を書き続けてきた私が「放射能が降っています。静かな夜です」という一行を書き、それを多くの方々に読んでいただくようになりました。

魚の群れの動きがハッキリと、今、変わってきている。原発の爆発をきっかけに、このままの暮らし方でいいんだろうかと考えはじめた。福島がある意味象徴になっているのかもしれません。魚の群れの動きが変わってきている時に、世界と福島がつながる方法があるのではないか。

福島で暮らしている皆さんと一緒に、それができるのではないか。その魚の群れの動きを見極めること。そして、私たちが魚の群れの先頭になったときに、どのような器で、どのような思考と方法でこれからの子供たちに伝えていくことができるのか。そんな風に思うようになりました。

それをグローバルではなく、「グローカル」と言って活動している人たちが世界中にたくさんいます。私が詩を朗読した国際作家フェスティバルは、インドネシアの「マカッサル」という、首都のジャカルタから随分離れた島で行われています。大都市でフェスティバルをやる時代は終わって、小さな町でたくさんの人が集まる考え方のほうが、本当のグローバルなんじゃないか。だから、「グローカル」という言い方をしています。

 

❏南三陸にて

この中で、考えさせていただいたことがあります。この作品は、南三陸の防災庁舎で、遠藤美希さんという女性と、もう一人職員のお方が最後まで避難を呼びかけて、残念ながら津波で巻き込まれて亡くなってしまいました。その声をNHKが放映して、それを聞いたお母さんが「まだ、言っている。まだ、言っている」と言って、涙をこぼす。この亡くなった人に届けようとして作った作品です。

2011年12月4日に南三陸の防災庁舎に直接伺いまして、この詩を朗読しました。大阪城ホールと宮城女子学院大学講堂、そして防災庁舎を中継で結んだ追悼イベントでした。当日は、口を開けると息ができなくなるぐらいの強い雨風でした。9時からリハーサルをしたのですが、一度も成功しませんでした。例えばイヤフォンが耳から外れたら、またやり直し。第九を歌うための大阪城の1万人のため息が「あーっ」と聞こえるのです。

何回も失敗するうち、津波の跡が残る防災庁舎で詩を朗読する私を死者が許さないんだと、どんどん落ち込んでいきました。生き残った私たちは亡くなった方々に許されることはないんだと、風と雨の中で感じていました。

本番ではじめてこの詩を最後まで読むことができました。聞いている皆も僕自身も泣いていました。許される許されないというより、その時なにか通じたのかな、と思いました。そして、詩を、朗読を続けて行こうと思ったきっかけでもありました。

<朗読時の映像・和合亮一氏公式HPより>

僕の教え子や親御さんもたくさん津波で亡くなりました。ですから、遠藤美希さんの話は、自分の話であり、教え子や亡くなった方々への気持ちとつながってくるところがあって、この朗読を続けて行くうちに、神楽をやってみようかな、と思いました。

今自分が書いているものの根本は、亡くなった人への祈りと、今を生きる私たちのその上での一歩、手を握り合うところから始められないだろうかというところです。

 

❏風の電話

昨年、岩手県大槌町の「風の電話」に行くことができました。管理人の佐々木さんの手で整備された庭を進むと、懐かしい電話ボックスがあり、その中に黒電話があります。電話線が途中で切れているその電話で、空の上にいる人たちと話すというのが「風の電話」です。

「風の電話」は、佐々木さんが生涯かけてつくった作品。海があり、風が吹き、この庭の中、大槌町にある電話ボックスが「風の電話」です。

「この「風の電話」は風と対話する。あなたが亡くなった方と対話をしようとしたとき、あなたの心の中にいるその方、その風と対話しようとしたのです。「風の電話」をまねて、福島に置くのは無理です。その代わり、あなた自身が、そして福島で悩み迷っているその方々の存在そのものが「風の電話」だと私は思っている。あなたが、福島の人が「風の電話」になりなさい。」佐々木さんのお話です。「私は孤独を恐れずやってきた。お客様がおいでになるようになったが、やりたいことをやっているだけ。周りの人が変わった。だから、和合さん、新しいことをやりなさい。新しいものしか残らない。」

福島だけの風景を皆と分かち合っていきたいと思っています。これから、探していくのは芸術ホールになるのかもしれません。そして、新しく生まれかわるセンスというものを皆と一緒に追いかけていきたい。

 

❏福島にしかない風景、福島にしかない芸術

僕は読むと、いつまでも新しいものに生まれ変わる詩に非常に惹かれます。わかりやすい部分もあれば、わかりづらい謎の部分もあります。宮沢賢治「春と修羅」、萩原朔太郎「月に吠える」などは、解りにくさとともにある。それは、言葉にできないことを言葉にしようとした詩人たちの葛藤の歴史でもあります。

私たちは言葉を書く人間でありながら、書こうとしていることは言葉にできないことなのです。この言葉にできないことを言葉にするという矛盾を、そのまま書いていく。それが詩だと思います。

その解りにくさは、「風の電話」の、―初めからコードが切れている…その電話ボックスに生きている人が入り受話器を耳にあてる…言葉が聞こえてくる気がする― この、解りやすいような解りにくいようなこととつながる。

どうしても解き明かせないような、小さな謎。謎そのものと向き合うことを分かち合える。ひいては我々が生きてそして死んでいく、答えのない問いかけと同じである。このことを現実の本分とするのならば、単に解りやすいことだけを追いかけて、それが新しく生まれ変わるセンスになるんだろうか。

僕は改めて受け手が育つ学びの場が必要だと思います。インドネシアの事例のように表現する側ではなく、観客こそが、その場を創る。これを第一に考えるような場所の在り方、芸術ホールの在り方が、求められています。

環境は変えられる。変えるには目と耳と手を改めて私たちが育て、子供たちに伝えていく。そうして、インドネシアのようなホットな客席をつくる。そしてフェスティバルなど、皆さんで集う場所を作っていく。

それが、もし橋を架けることになるのだとしたら、皆さんとともに歯車をかみ合わせながら、一緒に動いていく。動いてきた中で、また集まる場所ができていく。それが、海外も含めて様々な場所に、橋を架けていくことになる。

その時に初めて、福島オリジナルが見えてくる。福島から声をあげるということが見えてくる。それが、世界発信への意欲につながっていく。

このことを、今の子どもたちや、これからのお孫さんにも伝え続いていけば、革命を、福島を日本一にすることはできると思います。その始まりの象徴が芸術ホールであったらと思います。皆さんが30年取り組んできたことは、大変意義のあることだと思います。

歯車をかみ合わせながら、その場を創っていく。日本のどこにもない場所を絶対に創っていく。そして、場所を創って橋を架けて私たちの内側の力を高めていく。

三本の柱。「力動の柱」「橋を架ける架橋の柱」「内圧の柱」。この三つの柱ができていく中で、福島だけの風景、福島だけの芝居、福島だけの劇場、福島だけの声…。そして、福島から見た日本が見えてくる。たくさんの福島を増やしていくとき、芸術ホールという象徴が私たちの真ん中に現れてくると思います。

思考と行動を変えていく、変える器である。器が変われば、思考と思想が変わる。その器こそが芸術ホールであるとすれば、その芸術ホールが私たちの真ん中にあったときに、私たちは風を吹かせることができる。

今でも、私たちは震災後、右手と左手に様々なものを抱えて福島で暮らしています。その問いかけに答えはないかもしれない。でも未来に向けて絶対的な質問をぶつけていく。「解からないだろう、答えられないだろう、解決しないだろう。じゃあ、黙っていよう。」ではなくて、振り向かないから声をかける。その情熱と挑戦心を福島の皆さんが待っていると私は思っています。そして、その情熱と挑戦心を持って30年間、芸術ホールというものを追いかけてきた皆さんだからこそ、わたくしたちに勇気を与えてくれているなと思います。

わたしも詩人になって30年、皆さんも30年。これからも頑張っていきましょう。ありがとうございました。

 

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